デリケートゾーン脱毛の限界

看護婦は私を含めて二名しかおらず、相棒は心筋梗塞の患者のカテーテル検査につきっきりである。
男性に対し、「やられる前にやってやろうじゃないの!」なんて攻撃的なことが頭に浮かぶはずもなく、すぐに上司と検査中の相棒に連絡を取った。 同時に、「ああ、周りの人をどこに誘導しようか……。

危険物を避けなければ。 もし医者が刺されたら、一番近い救命の救急処置室へ運んで、医者は救命に任せ、自分は患者のそばについて……」頭のなかでぐるぐると、非一遍事態の際の手順を確認していた。
救急外来にいた患者は三名。 そのうち一名は、偶然にも高熱を出した看護婦だった。
その場にいた赤ん坊とお母さんをまず外へ連れ出し、離れているように言った。 受診していた少年には、一緒に外へ出るよう声をかけた。
同業者の看護婦は……悪いけど放っておいた。 何かのときには手伝ってもらおうと思ったからだ。
しかし、高熱を出し、点滴を受けている彼女は、ぐっと体を丸め刃物を持った男性を刺激しないようおとなしくしていた。 私もなるべく刺激しないように、そっと男性の周囲から破損されたら困るものを遠ざけ、ハサミなど凶器になるものを目のとどかないところへ移動させた。
救急外来は、緊迫した空気が漂っていた。 医師はひるむことなく椅子に腰掛け、男と向き合って話していた。
きっと内心はドギマギしているのだろうが、挑発しないよう慎重に言葉を選び、何よりもまず刃物を持った男性の頭部の傷を洗浄し、すぐにも縫い合わせねばならないことを冷静に伝えていた。 医師と話しているうちに男は眠くなったのか、ややおとなしくなった。
そこへ当直の婦長が来てくれた。 すぐに現状を察知したようだ。

「ほかの患者さんは大丈夫?」「はい、大丈夫です」そのとき、男の奥さんが病院に到着し、外来にやってきた。 「あんた、いったい何やってんの!」奥さんが声をかけた瞬間、男の表情がぐっと険しくなった。
「うるせえ、何言ってやがんだよ.ばかやろうが!」再び男が興奮してしまった。 あ−あ、せっかく落ち着いてきたところだったのに私は内心、イラ立った。
しかし、奥さんはまったく動揺した素振りを見せず、「看護婦さんとお医者さんにこんなに迷惑をかけるなんて。 恥ずかしい。
この人、普段は気の小さい人で、こんなんじゃないんです。 それがお酒を飲むといつもこうなってしまって……」奥さんは深々と頭を下げた。
私はこの男の奥さんというだけで、彼女に文句の一つも言ってやりたい気分になっていた。 しかし、婦長は意外にも、「毎度こうだったら、ご家族の方もさぞかし大変でしょうね」とあわれみの声をかけ「婦長、どうもありがとうございました。

いったいどうなるかと思いましたけど、助かりました」ホッとして私が礼を言うと、「今日は大変ね。 ご苦労さま」何事もなかったように去っていった。
た。 「そうなんですよ。
申し訳ありません。 気が小さいもんだから、ナイフなんか持ったりするんです。
本当にすいません。 私はその度に呼び出されて……。
情けない」奥さんはうつむきながら、上目使いで男のほうをチラリと見た。 私が思っているのとは、正反対の声掛けに、婦長さん、すごいね。
器がでかいね、さすがだねと感嘆した。 婦長の言葉を聞いた瞬間、男はシュンと素に戻った。
その後は、ただ黙って医師の処置を受けた。 北風と太陽の話のように、温かく包みこむと、コートを脱ぎ本性をあらわしたケースである。
人間は、経験によって学習するものだ。 学習とは、学び=まねび(真似をする)、習う(自分で実際に繰り返しやってみる)という二語から成り立っているのが思い出された。
「でも、次にこういう場面に遭遇しても、あんなふうに言える自信はないなぁ」と思い、ハツとした。 たった今、婦長の応対を見て、学習の学びをどう真似すればいいのかわかったはずなのに、それを習うところまで結びつける自信がないなんて……。
こんなことが起きた直後だったせいなのか、弱気になっている自分に我ながらビックリした。 そこに、放っておいた高熱看護婦がムクリと起き出し、「あ−、怖かったです」と率直な感想を述べていた。
あの男性の場合は、気が弱いため、護身用にナイフを持っていた。 いわばナイフはお守りだったのだろう。

看護婦として、いろんな場面に遭遇し、様々な経験を積んできた婦長だからこそ、状況に応じた的確な声掛けができるのだろう。 その後も、精神疾患の患者が興奮し、殴られそうになったことがあった。
鎮静剤の筋肉注射を医師の指示どおり行い、腕をもみはじめたそのとき、男が私の手をバシッと払いのけた。 「こらぁ、もみかたが違うだろうがぁ!こう、こうやってしっかりと中指と人差し指でもめ!」と大声を出した。
「ほうら!早くもめ!」私は前回の教訓、的確な声掛けを意識しながら、「そのまま、ご自分でもんでください」ゆっくり、はっきりとそう言い切った。 彼の表情がぐっと険しくなった。
やぱい.…、挑発してしまった.…どうしてこうなんだろう。 これじゃあ的確な声掛けどころか、不的確な声掛けじゃないか。
医者は私にごめん、言うとおりにしてやってくれと彼の肩越しに合図を送ってくる。 すると、「なんだ、なんだぁ!おまえ、その態度はぁ…!」結局殴られることはなく、内服薬の処方が出た後、彼は帰宅することになった。
そして去り際に、クルリと私のほうを振り向いた。 また何か怒鳴られると身構える私に彼は、「ありがと!」これまた意外な声掛けをされたもんだ。
彼は、私より上手である。 この話を先輩に聞かせると、「ああ、そうそう。

私もさあ、突然その人に『おまえ不倫しとるだる−が−』って言われたのよねえ」とぼやいていた。 ものすごい剣幕で怒鳴られ、彼は椅子から立ち上がった。
殴られると私は瞬間的に首をすぼめた。 続けて彼は叫んだ。
「おまえなんかなぁ、おまえなんか、俺の嫁にしてやるもんか!」イヤ別に…。 あなたの嫁にしてもらわなくて結構です…的確な声掛けというものは難しいものだ。
心からそう思った。 それとともに感じたのは、ナイフをお守りに持つより、本当のお守りを手にしたほうが、御利益がありそうだということだ。
刃物に頼らねばならないような不安定な心を変える努力をして頂きたいが、世の中が不安定で、彼らは彼らなりに必死に生きているのだろう。 彼娃植婚や不倫などが引き金となり、精神疾患が出現したのかもしれない。
ある戦国時代劇で、殿様の奥方が燃えさかる城のなか、短剣で自害するシーンを見たことがある。 胸を突き刺した後、たいていが手下の者に介錯させるのだが、殿様の奥方という自分の立場とプライドを最優先させた、はかない最期であると思う。

ナイフをお守りにしていた男、彼はいざというときや、人を威嚇するときの精神的安定のために刃物を持っていた。 それは決して自分に向けるためのものではなかった。
自分に刃物を向ける心境とはどういうものだろうか。 自らを突き刺すその瞬間まで、理性や人格を保っていられるのだろうか。
手首を切っても、即死はしない。 致死量の出血に至るには、結構な時間がかかるのだ。

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